こんにちは。「ボランティアガイドおきつも」の松本です。
きょうは、美旗地区のご紹介をさせていただきます。
美旗は、かつて美濃原や小波田野と呼ばれ、古事記や日本書紀にも記述されている天皇の禁猟区としての広い原野があったところです。
この地区には5~6世紀の古墳群をはじめ、室町時代には能楽観世流の元祖観阿弥が創座したとされる福田神社跡、中世では天正伊賀の乱の織田信長ゆかりの滝川氏城跡、また近世になりますと約360年前に開発された新田水路や初瀬街道宿場町の名残をとどめる新田の街並みなど数多くの歴史が残されています。
(写真:美旗古墳群 史跡)
さて、新田水路ですが、承応3年(1654年)藤堂藩の政策として加判奉行であった加納藤左ヱ門直盛は同役の三浦少之介と共に、この原野の開拓を立案し、藩主の藤堂大学頭高次の許可を得て、伊賀地方最大規模の新しい村づくりに着手されました。
新田の地は丘陵にあり近くの川より水を引くことが当時の技術ではできなかったため、滝之原地区と小波田地区にそれぞれ池を築堤することになりました。
かなりの人数を動員し苦労の末、完成した村と水路ですが開墾3年目には185戸の農家で米作りが行われていたようです。
ところがその後の度重なる豪雨のため水害が相次ぎ1675年には大池の欠損により莫大な被害が生じました。
そのため永久に亘る豊富な水を確保するため2次計画として、水源を3里20町(およそ14キロ)先の現在伊賀市高尾の前深瀬川に求め、遠大な水路を難工事の末に、無事完成させました。
この工事は直盛の子、直堅の時代に造られたもので親子二代に亘る苦心の結晶として脈々と伝えられています。
前深瀬川からの水路が新田地区に入りますと水路の補水として青蓮寺ダムからの分水塔があり、そこから各田んぼに水を入れるため高低差をつけた土手となります。勿論、開墾当時からの水路で約2キロ近く流れています。
(写真:青蓮寺ダムより続く水路・分水塔)
田んぼを見ながら水路を散策していただきますと、春には桜並木の花が咲きこぼれ、途中には初瀬街道の常夜燈や愛宕神社の祠もあり、遠くには布引山地や伊賀富士と言われている尼が岳、俱留尊山や鎧岳、兜岳、国見山など美しい山並みを望むことができます。
(写真:新田水路の桜並木)
また、国の史跡に指定されている美旗古墳群の女良塚、毘沙門塚も水路沿いにあり、美波多神社への参道も続き、広い農園ゾーンには向日葵やコスモスが季節によって楽しめます。
(写真:農園のコスモス)
この広大な地にできた新田の田んぼは「ぜり田」と言われ各家の屋敷の裏に設けられており、全国でも数少ない形態で、春の田植えの時期から秋の収穫の頃までまるで短冊の様な田園風景をご覧いただくことができます。
この新田開発によって、初瀬街道もつけられ明治22年頃までは伊勢の国と大和の国を結ぶ心暖かい信仰の道でもありました。
初瀬街道宿場町として賑わっていたころは茶店や旅籠が軒を連ねていたそうです。
かつて、国学者の本居宣長公も吉野への旅でこの新田を通り、菅笠日記で和歌を詠まれ立派な歌碑が美波多神社参道前の街道に立っております。
「糸桜 苦しきたびも忘れけり
立ちよりてみる 花の木陰に」 本居宣長
(写真:本居宣長の歌碑)
「旅」という言葉を美しくかざる枕詞を「草枕」と申しますが、ある時は草を枕とし、ある時は侘しい旅籠の上り口で草鞋のひもを解いた昔の旅を思い浮かべ、、山をかすめる雲のひとひら道端にそよぐ草花のひとつひとつに目をとめていただきながら是非散策なさってみてください。
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